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立会川と医専橋

昭和医専本校舎と立会川の雪景色(1930年頃)

立会川は、目黒区碑文谷の弁天池に発し、品川区大井まで流れ東京湾に注ぐ川である。両地はかつて「荏原」にあったので、以前は荏原川と称されていたという。
立会川の名称の由来には諸説があるが、在郷の芳根弥三郎氏(故人)の『荏原中延史』によれば、源平の合戦の際に、この川を前衛として源氏軍が兵備を築き平家の来襲に備え、この川に対陣すること長きに亘ったため、立会川と命名されたとしている。その後、本学の上の丘陵には武蔵平塚城が築かれた。応任2年(1468)には太田資持率いる上杉軍が平塚城主豊島泰明を攻めこれを破ったが、このように立会川は、しばしば戦乱に巻き込まれたという。

しかし、戦乱の収まった江戸時代以降、明治、大正の頃にかけて、立会川の清冽な水は「百花さき競ふ野面をうるほし、羊腸の土手には魚釣る子供等が点在して、のどかな風景がみられた」(『荏原中延史』)。鯉、鮒、鰻、鯰、はや、うぐいなどが立会川で沢山釣れ、鍋鶴、鴨も居た。
明治14年に作成された品川付近測図を見ると、当時の品川近傍は品川宿を除いては全くの農村地帯であり、荏原台地を流れる立会川・目黒川付近は水田として利用され、台地上はほとんど普通畑であったことが分かる。大正5年の品川図でも、立会川をはさみ水田があり、この平塚村付近はまだ農村部として残っている。
農作物は、米のほかに、明治時代中期は竹の子、胡瓜、茄子、しろ瓜、大根、西瓜、漬け菜、里芋などを作っており、明治後期になると、天王寺カブ、小松菜、大麦、じゃがいもが加わってくる。大正初めには、新しく小麦、西京菜、葱、冬瓜、ほうれんそう、薩摩いもなども作られるようになった。(旧中延村芳根家文書参考)

病院旧正面玄関前にあった屋敷下橋(昭和30年代)

明治の初め頃、立会川には「蕃神橋」がかっていた。この橋は旧昭和大学病院正門前あたりにあったが、のちに「屋敷下橋」と言うようになった。この橋とは別に、昭和5年11月に鉄筋3階建ての本校舎(現在の病院入院棟の場所)が完成した頃、本校舎と伝染病棟(現中央棟敷地内)の前付近に「医専橋」がかかった。

当時を回顧して、総婦長であった故鈴木モヨ氏は、「昭和3年10月就職。田んぼの中にバラックがぽつり。これが今の旧外来玄関である。人家、商店もなく、今の上條講堂は鏑木坂と称し、古木の茂みの中に鏑木邸のみ見え、夜はフクロウの鳴き声が聞こえる。病院はその下、立会川もほとんど同じ地面にあり、周囲はあし、よしが人の背丈ほどのび、道端より蛇がニョロニョロと出る。」と記している。

医専橋はその後、他の橋と同様に川の汚染、下水道整備、交通渋滞の解消などのため立会川を暗渠化するに伴い、昭和46年3月までに撤去された。

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