創立者 上條秀介
創立者 上條秀介 博士
上條秀介は1893年(明治26年)に長野県に生まれ、東京大学で医学を学んだ。卒業後は東京大学に奉職し、そこで内科学、病理学を研鑚して医学博士となる。
1925年(大正14年)、上條は当時の社会情勢と医学教育体制との矛盾を逸早く洞察し、優れた臨床医を養成することの重要性を世に訴え、本学の前身である昭和医学専門学校創立の計画に着手した。
上條は石井吉五郎、吾妻俊夫らの援助によって幾多の困難を乗り切り、1928年(昭和3年)4月、同医学専門学校を創立した。教育活動の理念に「不求一身安」「至誠一貫」を揚げ、学生の可能性を引き伸ばす教育を自ら実践した。学校長を経て戦後は引き続き昭和医科大学長として、一貫して医学教育、看護教育の充実と本学の基礎作りに邁進した。また、日本病院会の初代会長に就任するなど、戦前・戦中・戦後の一生を通して日本の医療界や医学教育の発展に大きく貢献した。
1925年(大正14年)、上條は当時の社会情勢と医学教育体制との矛盾を逸早く洞察し、優れた臨床医を養成することの重要性を世に訴え、本学の前身である昭和医学専門学校創立の計画に着手した。
上條は石井吉五郎、吾妻俊夫らの援助によって幾多の困難を乗り切り、1928年(昭和3年)4月、同医学専門学校を創立した。教育活動の理念に「不求一身安」「至誠一貫」を揚げ、学生の可能性を引き伸ばす教育を自ら実践した。学校長を経て戦後は引き続き昭和医科大学長として、一貫して医学教育、看護教育の充実と本学の基礎作りに邁進した。また、日本病院会の初代会長に就任するなど、戦前・戦中・戦後の一生を通して日本の医療界や医学教育の発展に大きく貢献した。
上條秀介博士 略年譜
年号 | 西暦 | 年齢 | 事項 |
明治26 | 1893 | 0 | 12月22日、父実三郎・母いくの五男として長野県東筑摩郡今井村(現在、松本市)に生まれる |
明治40 | 1907 | 14 | 長野県立松本中学校に入学 |
明治45 | 1912 | 19 | 7月、同松本中学校を卒業 |
大正元 | 1912 | 19 | 9月、東京府第一高等学校(三部甲類)に入学 |
大正4 | 1915 | 22 | 7月、同高等学校を卒業 |
9月、東京帝国大学医学部に入学。牛込矢来町の崇教館に起居する | |||
大正8 | 1919 | 26 | 12月、同大学を卒業 |
大正9 | 1920 | 27 | 1月、東京帝国大学医学部に奉職、同附属医院三浦内科に勤務 |
大正10 | 1921 | 28 | 湯澤美代子と結婚 |
大正12 | 1923 | 30 | 4月、「神経髄鞘の微細構造」に関する論文で医学博士の学位を授かる |
大正14 | 1925 | 32 | 3月、医学専門学校創立の計画に着手、東大同級の石井吉五郎らと共に同志を糾合する |
大正15 | 1926 | 33 | 10月、鏑木忠正、石井吉五郎、吾妻俊夫、高木慎、水原豊らと諮り、創立の方針を定める |
昭和2 | 1927 | 34 | 東京女子歯科医学専門学校理事に就任、私立学校の経営方法を学ぶ |
昭和3 | 1928 | 35 | 3月、東京帝国大学医学部助手を辞任 |
3月17日、財団法人昭和医学専門学校および昭和医学専門学校を設立し、終身理事となる | |||
4月、昭和医学専門学校教授、学校主事 | |||
5月、同校附属医院を開設し、医院長に就任 | |||
昭和6 | 1931 | 38 | 「新内科学」並びに「日常医語集覧」を出版 |
8月、昭和医学専門学校附属産婆看護婦講習所を設立し所長に就任 | |||
昭和8 | 1933 | 40 | 「診断学」を出版 |
昭和13 | 1938 | 45 | 7月、岡田和一郎初代校長逝去の後を継ぎ、昭和医学専門学校長に就任 |
昭和18 | 1943 | 50 | 2月、東京府医師会理事に就任 |
昭和20 | 1945 | 52 | 3月、神田区宮本町の自宅にて戦災を受ける |
5月、大森区南千束および渋谷区代々木富ヶ谷にて戦災を受ける | |||
昭和21 | 1946 | 53 | 4月、昭和医科大学長、同附属医院長に就任 |
11月、財団法人多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)理事に就任 | |||
昭和23 | 1948 | 55 | 3月、東京都病院給食委員会委員 |
昭和24 | 1949 | 56 | 7月、東京都医薬品等配給諮問委員会委員 |
9月、東京都病院協会を設立し、理事長に就任 | |||
昭和26 | 1951 | 58 | 2月、財団法人昭和医科大学を学校法人に組織変更後、引き続き理事、学長 |
6月、日本病院協会(現日本病院会)を設立し、会長に就任 | |||
8月、昭和医科大学附属看護婦学校長就任 | |||
10月、日本私立大学協会理事、私学総連合会理事に就任 | |||
昭和27 | 1952 | 59 | 3月、財団法人私立学校振興会(のち、日本私学振興財団、現日本私立学校振興・共済事業団)評議員に就任 |
昭和28 | 1953 | 60 | 11月、科学研究費等分科審議会、私立大学研究補助審議会員 |
昭和29 | 1954 | 61 | 4月、東京都医療機関整備審議会委員 |
7月、大学設置審議会常任委員 | |||
昭和31 | 1956 | 63 | 5月19日、昭和医科大学病院にて狭心症のため永眠。勲四等瑞宝章、従五位を賜る |
5月23日、大学葬、多磨霊園に葬る |